Message for Christian
     「主よ、私を用いてください」
              マルコ11章1-10節 

1.エルサレム入城

 イエス・キリストがエルサレムへ入られるときのこの場面は、ワクワクするような場面です。重い福音書記事が続く中、ここだけはイエス・キリストの栄光ある輝かしい一面です。それはイエス・キリストの本来の姿なのです。

 人々はメシヤをお迎えしようと上着を道に敷き、他の人々は棕櫚の葉や枝を切ってきてイエス様が通られる道に敷きました。口々に『ダビデの子にホサナ!』とさけび、約束された救い主の入城を喜びました。もしその場にいたとしたら、どんなにか喜びに包まれたことでしょう。

 しかし、このマルコの記事を読んでいくとき、エルサレムに入られたイエス様に対する人々の歓喜の場面よりも、その準備のためにロバの子を調達するときの出来事に焦点が当てられています。イエス様はエルサレムへ入られる準備として弟子たちに命じられました。・・「ロバの子を引いてきなさい。」弟子たちのキョトンとした顔が目に浮かびます。お金を払いなさいと言うのならわかります。しかし、そうではありません。普通ならそれは犯罪です。・・隣町まで行く間、二人は疑心暗鬼だったでしょう。「そんな事言われてもなー・・」信仰と不信仰の間を行ったりきたりする時だったでしょう。

福音書を見ていくときに同じような出来事があります。

 ○船に乗られ、暴風で船が沈みそうになったとき。イエス様は死の恐怖を感じている弟子たちをよそに、ぐっすりと寝ておられた。マルコ4章35節〜

 ○5000人の給食を与えようとしておられたとき、弟子たちに向かって「何とかしなさい」と語られた。6章35節 

 ○4000人の給食のときはイエス様から言い出している。
「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなるでしょう。それに遠くから来ている人もいます。」 8章1節〜
明らかに弟子たちに考えさせようとしておられます。


 イエス様はいつも弟子たちに、ご自身に信頼することを教えられています。なぜなら、私たちは神様を信じていますが、その力に信用しようとしないからです。いつも自分の力に頼ろうとします。そして出来ないときに失望し、意気消沈して、「私はだめな信仰者です」と嘆くことになります。しかし、私たちが自分の力に頼る事をやめ、彼に信頼するときに、主が働かれます。奇跡が起こるのです。

    

2.どうしてロバの子

 イエス様がエルサレムへ入城される際、どうしてロバの子に乗られたのでしょうか。だいの大人がロバの子にまたがるのは滑稽です。その理由は二つあります。

@預言者ゼカリヤによって語られたことの成就でした。

ゼカリヤ 9:9 「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」

預言者ゼカリヤはイエス・キリストが生まれる500年以上も前に、この事を預言していました。弟子たちは後になってこの預言に気づくことになります。

A小さき者をも用いてくださると言うあかしです。

 ロバは家畜の中でも、それほど大切にされるものではありませんでした。荷物を載せて運ばせるくらいです。ロバの子となるとほとんど役に立てません。しかしこの時には、イエス様をお乗せする働きをしました。それは小さき者をも用いられると言うことの証しです。

 先日、A兄弟の葬式がありました。このかたは本当に不思議な兄弟でした。特別な才能とか資格はありませんでした。でも、恵みのおすそ分けと言って、畑でとれた野菜をいろいろな方々の元へ自転車に載せて届けました。七十歳過ぎでしたが、小学生たちに聖書を教えたいと言い、教会学校教育を学ばれていました。教会では何の肩書きもない人でしたが、神様を喜び、仕えておられました。

私たちも小さき者です。でも神様は用いたいと願っておられます。私たちが自分の上に主をお乗せして働くとき、神は私たちを喜ばれます。それは「義」という漢字からも教えられます。

   

 そして敬虔なクリスチャンの方々に忘れないでいてほしい事は、「用いられることで満足してはいけない」という事です。自己満足のとりこになってはいけません。そこには人からの賞賛を得たいと言う隠れた欲が潜んでいるからです。決して私が中心なのではありません。私たちが本当に喜ぶべきことは、自分がお乗せしたイエス・キリストを人々が見て、喜びの歓声、賞賛の声をあげることです。その賞賛の声を聞きたいと願うからこそ、彼をお乗せして運ぶのです。

 説教者も同じです。どんなに説教学を学んで、人の心をつかむお話をできるようになったとしても、イエス様が褒め称えられなければ意味がありません。

「先生のお話はじょうずですね」と言われると嬉しいのですが、それでは意味がありません。「お話を聞いて、イエス様の十字架の愛がよく分かりました!」と言われたときこそ本当に素晴らしい説教だったと言えるのです。私たちはイエス様を乗せてお運びしているに過ぎません。

 バプテスマのヨハネは『あなたはだれですか』と問われたときに、ヨハネ1章23節で「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」と言いました。彼は偉大な人でしたが、自分ではなく主イエスこそ高められなければならないと理解していました。


 これは自己否定ではありません。その理由は、私たちは神様によって創られ、命を与えられ、愛されて日々生かされているからです。創り主こそ褒め称えられるべきだからです。ぜひ主に用いられるキリスト者として歩んでください。